一昨日の11/1、安楽死を認めるオレゴン州にそのために移り住んだブリタニー・メイナードさんが、予告通りその意思通り夫や家族の見守る中で、安楽死を遂げた。余命半年、しかも痛みを伴う余命からの選択。
医師の処方する薬を自ら飲んだから安楽死ではなく、自殺&自殺ほう助だとかキリスト教徒として自殺はダメだとかの議論はさておき、人が自らの今後を 想像、悲観する時、何を思うかどうしたいかどうしてしまうかを考えてしまう。ブリタニーさんももちろん色々考え、混乱し、怯え、また考えて選んだ路なのだろう。
以前、ラジオの何気ないトーク番組から心に残った言葉と、丁度その時読んでいた、玄侑宗久の本からの言葉が重なり合い、自分の中で妙に納得したことを、今回また思い出している。
ラジオからは「大変な事態や悲しみを、これから起こるかも知れない出来事として想像することこそが恐ろしい、辛いのであって、出来事そのものは起きてしまえば大したことはないことが多い。辛い想像は無意味、しないほうがいい」というものであった。
現実に大きな出来事に遭ってしまわれた方からは、否とされることとも思うが、一般論としての理解では、恐怖のもとはおそらくは人間だけが無暗にしてしまう負の想像力にあるのかと。
ずっと前に新潟で起こった大地震の際に、3日間ほど崩落した岩の隙間で身動きも出来ずに生き続け奇跡的に救助された幼児も、負の想像力を持たずに、”おかしいな”と前向きに生を信じていた故と思う。大人だったら絶望から、どうなっていたかは分からない。
もっと前の話では、南極観測船が不慮の事故によって緊急離岸した際取り残されたエスキモー犬、そして半年後に奇跡的に生きていた、タロー、ジローもその例かと思う。
生きていたタロー、ジロー
前述の玄侑宗久はこう言う。「不安とは何か。それは今ここにないものを頭の中にあれこれ浮かべている状態であり、本来は分からないものと割り切り、”今”にしっかり立つことが肝要。一歩を踏みしめる場所は常に”今ここ”だが、その一歩の置きようで、未来は少しづつ変化する。安心してその変化に応じつつ、”今、今、今”と進めばそこには不安は起こらない」と。
あの国民は実は虫が好かないし感心もしないが、星条旗のもとポジティヴシンキングと、アクティヴオパーチュニティを信条に生きていることだけは見習ったほうがいいかもしれない。
こんなことを書きながらも中々そうはいかない浮世だけど、努めてポジティブにいかないとなと猛省する文化の日。