葬式無用 戒名不要

初っ端からお葬式の話だが、今はやりの終活とは別ものの葬式感とでもして遺しておきたい。タイトルはかの白洲次郎の遺言だが、かつてこれを知った時、「これだ」と胸にストーンと収まったもの。

そもそも知人の葬式に「したくて」参列している人って相当わずかだと思うし、ごく身近な親族は当然別としても、「しないときまり悪い」とか「義理を欠いてよく思われない」とかの理由が真実で参列している人が大多数と思っている。
言葉を選ばずに言えば、そういった葬式は参列者側からは「迷惑」であり、そんな思いを胸に秘めて参列される主催者側からも「迷惑」と言っても、あながち否定できないと思う。
自分は「神」は否定しないものの、宗教に関しては全くのニュートラル故、宗教的な側面を外しての見方なので、あの世や来世に行くための必要な宗教的な儀式とすれば、葬式の開催はやむを得ないとは思うものの、現代社会においての葬式感としては、このように思うひねくれものである。


ただ、葬式からの一連の手続きにおいて、焼却までは衛生上不可避であろうが、その遺骨を何も重い石の下に閉じ込めてむやみに出てこないようにしたり、お盆に際しての、迎えは提灯の灯りで迎え、送る際には”ついてこないように”墓前で提灯の灯りを消す、などという、死者を忌み嫌うような昔からの風習が子供のころから不思議でならない。昔からのことだから、何か違った、深い意味もあるやも知れぬが、受け入れられない自分を是としている。

最近、出てきている散骨や、樹木葬なるものも、経済観念も含め自分のような葬式感からのニーズへの応えかと思い、やや安堵するものの、さびしがり屋の自分としては、知らない海も冷たそうだし、田舎の樹木の周りも何だか落ち着かない気はする。

そこで作業的にも、経済的にも、また以後の取り扱いにも極めて簡易な方法として、手元供養なるものを自分の納まりとしたいと考えている。10年ほど前から市民権を得はじめ、今では専門の業者が今風の改良を加えているようだが、簡単に言えば、遺骨の一部を、机の片隅にでも置けそうな洒落た壺や、あるいはペンダントとかに加工してこの世においておくもので、”本人”としてはあまり迷惑かけずに遺族のもとに残れる安心感があり、遺族としては、大きくは”本人”の希望で、簡易にその辺に置いておけばよく、墓参りも何もいらない。まだまだ高齢の親戚筋からは眉を顰められる可能性大だが、まことに受け止めやすいものである。
因みに、京都の博国屋(ひろくにや)なる会社が有名である。
https://www.hirokuniya.com/

イメージとして病院でこと切れたら、直葬と言ってそのまま火葬場で焼いてもらい、通夜も告別式も行わず、手元供養業者に遺骨の一部を渡し、後日その成果物を受け取る、という感じ。遺骨の一部以外、つまり大部分は不要となるんだけど、そのまま破棄はできないようで、これはこれで何万円かで処理する業者に引き取ってもらうそうな。

むろん、戒名などはつけようもない。ただ、自分にとって「神」は否定しないし、コワい存在?でもある。

蛇足だが、人類初の有人宇宙飛行に成功したガガーリンは、その乗ったボストーク1号から「地球は青かった」という有名な言葉を残しているが、この言葉以上に残っているのは「神はいなかった。あたりをぐるぐる見まわしてみたが、やはり神は見当たらなかった」という言葉で、これは冷戦時のライバルである米国民のほとんどが信じる”天にましますわれらの神”に対する痛烈な皮肉だったとか。