嘗て介護や医療現場に携わっていたころ、延命治療のための 胃ろう は家族による身勝手な悪の選択とされていた。

「口から物が食べられなくなったら、それは寿命」「西洋では胃ろうは虐待」とのみ信じ、わが身にそんな事態がおこっても断固 拒否したいと思っていた。 が、敬愛すべき(その持論に頼るべき)和田秀樹氏のコラム(週刊新潮 2026年7月2日号 ピンピンコロリの練習帳)を読んで、考えさせられた。無駄な医療や投薬を厳しく批判する氏であるが、胃ろうについては、何と肯定的だった。
理由として、嚥下障害を起こさないための栄養補給法は、胃ろうの他には、経鼻胃管、中心静脈栄養点滴があるが、前者の苦痛、後者の(過剰な水分による)肺に水がたまった溺れ感との比較においても、胃ろうが安価であることも含め、とるべき手法というもの。 胃ろうによる十分な栄養補給は、患者の身体状況の回復(ときに意識戻りも)が大きく期待できるという。


半面、胃ろう造設患者は5年くらい生存するとのことで、意識の無いままの患者を支える家族にとっての、長期の精神的、経済的負担(月数万円から10万円)への後悔もあるという。それでも氏は薦める。
これに対抗する訳でもないが別のコラムも見つけた。新庄徳洲会病院の院長のものである。確かに、西洋でも英、仏、蘭などは胃ろう=虐待的な見方であるも、ドイツは日本以上に取られる選択肢であるという。そこには、各民族、文化毎の死生観、家族観があると思うが、延命治療が本人の生存を願う愛情なのか、家族の自己満足のためなのか、という根源的な発想もあるようだ。同院長は胃ろう拒否派である。
要は、どんな状態で胃ろうの可否を判断するかを、なるべく具体的に家族に伝えておくべき医療分野だと思う。自分も院長同様、回復する見込みのない状況になって口から物が入らなくなったら、全ての栄養補給は拒否したいと思っている。半分冗談だが、苦しくない程度に、点滴にアルコールなど加えられたら、少し嬉しいかな。
和田秀樹氏のコラムで心に響いたのは、胃ろう や他の方法云々とは別に、人にとって、薬なんかより栄養補給がどれだけ体にいいか、体を回復させるか、ということ。来たる日の心配を紛らわすためのお酒の摂取量は減らせそうもないが(塩や味噌で一杯などはやめて)、栄養補給していこう。
